昭和43年5月19日 特別奉修委員 (末永信太郎)
熱心に皆さん、こうして信心のけいこが出けますのも、皆さん、御互いとりわけ人よりも大きなめぐりを持っておるおかげですよ。だから、めぐりのおかげで信心が出けるのです。今、ご神前に出らせて頂きましたらね、あの、蛇が蛙を飲んでるとこを頂くんですよ。
もう、蛙と言やあ、あの、まあ、ここでは恐いものちゅうことになってますよね。だから、もう自分達の行く手には、もう恐いものないというようなですね、もりもりした力が出けるのは、もう、めぐりのおかげです。たしかにそうです。同時に、だから、めぐりの多き私という自覚ね。特にあの、ここに集まっておられる方達はもうねえ、やっぱ特別な信心せにゃならん人ですけん、特別なめぐりを持っておるんだという自覚ね。けれども、そのおかげで、この世に恐いものはないというようなね、あの、安心の生活。ね。
本当に、めぐり様のおかげで、このようなおかげを頂いてというようなおかげを頂いて行かにゃならん。めぐりが大きければ大きいだけ、おかげもおかげ、大きい、徳も受けられるということになる訳ですからね。ここんところのおかげを頂いて行かなきゃならん。
そこで、そのめぐりがですたい、本当にその様々な難儀な形になって現れて来たんではね、あの、(ふつだ?)先生の生き方で行かにゃいかん訳ですたい。ね。もう、めぐりの出ようのないようなおかげを頂かにゃいかんとですよね。いわゆる、もう、当然のこととしての信心。ね。もう、当たり前の事としての、先ほど秋山さんがお届けされますように。
もう、今度24日があちらの謝恩祭です。ね。もう、それが、もちろん苦になったり何かする訳じゃないでしょうけれども、それはもう、とにかく、これだけのおかげを頂いてるんだから、ならもう、これは当然の事としてね、出来るようなおかげを頂きたいというお願いがあったんですけれどもね。はあ、もう、ほんにお祭りが大ごと大ごとちゅうごたる考えでしたんじゃ、やっぱいかんとですよね。
もう、これだけのおかげを頂いて、これだけのめぐりのお取り払いを頂いて、もう、当然のこととして、それが成されて行くおかげを頂きたいと、こう言うて願っておらえれるようにですね。本当もう、これはお祭りでそげん、また金はいりますばいち言うちから( )時はどんこんされんですよね。
それこそ、どうあるですかあなた、めぐりのお取り払いと思うてから、自分の持っとる一張羅でも売ってから(立てりゃ?)いいじゃんの。そうして、めぐりが取り払いが出ける( )。ね。もう、着物の二枚三枚減らしてどうあるですか。ね。めぐりのお取り払いが出けて行くとじゃから。
だからね、そういうような意味合いでの、あの、お取り払いを頂かにゃいかんちゅうのです。佐田先生の生き方はそれなんですよね。ああ、難儀なことが起こってから、やれ痛やじゃいかんとです。ね。もう、そのやれ痛やの起こる前に、こちらがそれこそ、いよいよ有り難いという信心でね、あの、おかげを頂いて行かなければいけない。
先ほどあの、桜井先生からお届けがあったんですけど、この前、お参りをして来る時にも自転車で参って来られる途中で、小さな蛇が死んでおった。先生、これはどういうこと。もう、この人ばっかりは、そげなことまで気になってどうすんのち言いたいけれども、あそこが神経のこまいところ。やっぱ信心にはそれだけの神経、そりゃあ、あなた福岡からここまで来るとじゃけん、蛇の一匹二匹は死んどるくさい。(笑)
けれども、そこんところを大事にして行かにゃいかんです。ね。だから、私はそん時に御取次させて頂いてからですね、あなたが例えば福岡からここまでもね、いわば勢い信心をなさっておられる訳なんです、普通じゃ出けることじゃなかです。ね。
その勢い信心をしておられることがです、いわゆる苦しい思いをせんなり、有り難い、楽しいでめぐりが死んで行きよる姿でしょうねち私が申しました。このくらいなめぐりは取れていたわけです。そしてがら、昨日、今度はお参りして来よんなさったげな。そしたら、やや大きなのが、また一匹死んどったちゅう、途中で。ね。ですから、その勢い信心ということが、いかにですね、あの、苦しい思いをせんなりに、楽しゅうして堪えんなり、勢いを持って向かうて来よるなりにです、ね、いつお取り払い頂いちゃ分からんようにして取り払われておるということが分かりますね。うん。
と同時にね、あの、めぐりがね、例えば今日のお夢なんか、ま少しあの、詳しく話されるとほんに良いですけれども、詳しく話されない性質がある訳なんです。あの、何ちゅうですかね。もう、それこそ地獄の様相を呈しておるようなね、町から極楽の町へ、こう私が変わって行きよるそこの(すいして?)行く具合がですね、もう、これは何、もうお話にしようがないほど素晴らしいことだったんですよ実は。
それが今言うように、めぐりのおかげで、そこは私は通り抜けて行きよるところでした。めぐりのおかげで、そこを私が、その脱皮して行きよるちゅうのです。ね。だからその、めぐりがなかったら、とても私はこの世界には、もう他の世界には住みきっとらんて。うん。ですからね、もう、本当にそのめぐりがね、蛇をあの、蛇がその、蛙を飲んで行くようにですね、私たちのこの行く手に有り難いものばっかりで、もう、全てが神愛と頂けてですね、恐いものはないというようなおかげの頂けて行けれるのも、合楽では先ず、あなた方が第一番だと思うですよ、もし受けて行けるとすんなら。
神様が下さろうとしておるなら、あなたどんに一番に下さるはずですよ。ね。ですから、本当にそこの自覚に立っての御信心が出来なさらなきゃいけませんですね。ね。信心しておって変わったことが起こって来たら、有り難いと心得て信心せよ。この頃から、あの久富(くにた?)さんの兄さんが、まあ、大変な言うなら病名不明といったような病気で、何ヶ月間ちゅうて苦しんでおられました。
で、お母さんが熱心に参られますたいね。昨日、おかげで退院が出けられて、昨日、月次祭にお参りさせて頂いた。お参りしとる間に、体が寒気が来てから、また、お祭り済んだら、すぐ裏の方へお届けに見えましたんです。して私は久富さんに申しました。あのね、心が神様へ向かうて、こうやって見えた。ね。
ですからね、もう、信心をさせて頂こうと思うてですね、例えば、変わって来たことが起こって来たらおかげと心得て、と。ね。信心しておって変わったことが起こって来たら、おかげと心得て信心せよと仰るから、それは、おかげやちゅう。ね。と言うてその、まあ、その間に色々、はあ、おかげの印を感じられ、また見せられたと言いよんなさいましたが、おかげで今朝の御祈念に、またお参りが出けておられますもんね。さあ、お参りしたらもう、また、こげなこつになったと言うて、あれがまた向こうの里の方さん送りやってから( )、そりゃもう、(そのことにしてしまいなさる?)とやったかも知れません。
ね、それをその、おかげと心得ての信心が出けるところへですね、日頃の勢い信心はやっぱり必要なんですよ。ね、今あの、(くにか?)さんが頂いておられることの中に、あの、熊谷さんからね、指輪を頂かれたお知らせを頂かれた。だから、二十日の日があちらの信心共励会になっとるからね、あの、信心共励会に来てくれということじゃろうと、私が申しました。
今まで夜じゃったから出けなかったけれど、これから午前、昼頃から、11時からですか?十時から?ん?十時頃から。ああ、なら皆、お弁当持って行かないかんね。なしや、お弁当持って行かにゃあんた。(なかで?)熊谷の(めぐり?)ばもろうて帰って来る(笑)。(ばってん?)一遍なもろうちもろうたがよかたいのお、あげな風で。(笑)
ね、とにかくあの、こう私、そのことを、そりゃ熊谷さん方から、あの、来てくれとい事じゃろうと言うて、あの、言いましたことはですね、あの、オリンピックのあれのようにね、こう、リングがこうやっていくつも、それは(荒いとですけども?)沢山こう繋がって行くとこを頂いたんです(けど?よ?)。ですからあの、お互いがあの、信心のこうした一つの輪を持ってですね、お互いがあの共励し合うということだと、こう思ったんで、あの、そう申しましたんですけれどもね。
その、結局、あの輪を持ってね、繋がって行くところのおかげを頂かせてもらわなければならん。そして、いよいよ共励させて頂くことは、もう、いよいよですね、あのめぐりのお取り払いをね、苦しいことでめぐりのお取り払いを頂くのじゃなくて、本当の意味での還元ですね。ね。本当の意味での、いわば桜井先生じゃないけれども、福岡久留米まで、自転車ででもお参りになるという、あの勢いの信心に、あの、めぐりが取り払われて行くわけですよね。
そして神様が、めぐりが大きかったから、おかげが大きかった。めぐりが強かったから、強い力と徳を頂いた、と。めぐりのおかげで、こういう、いわば難儀な世界から幸せの世界へ住み替えることが出けたという、本当になるほど神様の氏子である、神様の氏子である証拠に、神様のこういうご守護を受けておるというようなご修行の受けられやすい、いわばあの、現在皆さんは、合楽ではそういう一番の場におられるわけです。神様からご褒美を頂くなら、一番初めに頂かれる、いわばその、状態にあられるのでございますから、ね、ここんところを一つ頂き抜かせてもろうて、本当の神の栄光を一心に一家に受けられる徳の世界への住替えが出けるおかげを一つ、願わせてもろうての信心でなからなきゃならんと思うですね。
あの、今、井上峰子さんのお届けの中にもありましたが、もう、最近ここでは、その、磨くことも改まることも人が助かることのためにと言うて言われておるわけですね。もう、最近はもう、お届け帳を作って、もう我取次者の自覚に立って、あの、願わせてもらいよるちゅうことです。ね。それがもう、この頃楽しゅうなって来たちゅう。ね。もう、絶対そういう信心でなからなければ、夕べの御理解じゃないけど、いわゆる、大海のような信心というのは、そういう信心だ。
どんなに素晴らしい信心、どういう素晴らしい性格性質を持っておっても、私一人、わが一家のことが祈っておれるのであったら、それは、あの、竹の筒に水が溜まったような信心じゃから、ボウフラぐらいなおかげしか頂けれんて、桂先生が仰ったそうです。
だから、あの御理解の内容をね、頂けば頂くほどにです、私どもはいかに、もっともっと広い大きな意味合いでの、この祈りというか、願いがね、ほんなもう、わがげん孫んこつばかり、わがげん娘んこつだけで終始しておるようなことじゃなくてですね、もう本気で私はね、言うならば合楽全体の発展、ごひれいのために修行せにゃいかんのです。
お参りも、その発展ごひれいのためにお参りしよる、と。はあ、商売が繁盛するために今日も参らにゃんちゅう、そういうところから脱皮してですね、そういう信心が楽しゅうなからなければです、ね、ただ、ほんの内容が向きが変わるだけですよ。それで、それが大海のような信心になると言うのですから有り難いでしょうが。ね。どうぞ一つ、おかげを頂かにゃいけません。